一杯の珈琲




http://hydeout.net/hydeout/2010/03/_hydeoutproductions.html#trackbacks


思っても仕方がないことだけれども、
自分が話しかけた一言が違う言葉だったら、
物事は変わったのだろうかとか考えてしいます。


いや、こんなペーペーが何を話したとか、
出した珈琲にミルクをつけたとかつけないとか、
因果と結果にはあまりにも遠いとは思うのですが、
その一杯の珈琲がもっと美味しくいれることができれば
(もしくはその後にネタになるほどまずければ)
何か物事は変わったんじゃないかななんて考えてしまいます。


その一方で、リリースされなかった音源があるということを聴いて、
どんな音なのだろうと、不謹慎にも楽しみにしてしまう部分もあり、
自分の卑しさを感じるばかりです。


才能に死が近寄るのか、
才能があるからこそ死に関心の焦点が集まるのか。
おそらく後者なことは間違いないのでしょうが、
なんともあまりにもやるせない気持ちです。


追悼として、遺作とともに、ラムゼイやユセフラティースのコーナーが
HMVタワーレコードに創られるのでしょうか。
創られるでしょう。それによって、少しでも多くの人の耳にとどけば、
遺恨の一部を担うことでしょう。
あとはその企画自体を起こす会議に、
尊敬の念が、少しでも濃く合って欲しいものです。


僕もなんだかんだで、そのコーナーか遺作のうちから、
何かを手にとってしまうのでしょうが、
どうせ置いてあるものは一緒なのですから、
尊敬の念が少しでも濃く滲み出ているお店から、
その音を購入できればと思います。
なるべくモノを買うときは、特に音楽を買うときは、誰かの意図を買わずに、
そのもの自体の質を見ようと努力はしておりますが、
このときばかりは、その意図に対して、お金を払おうと思います。