49.8MB:メディアに残す事は何か

一週間に一度…いや、もう少し間を置いてかな。
目にするメディアがある。青い、SONYのCD-R。
このメディアには、49.8MBの動画ファイルが入っている。



たしかに、それは動画である。



しかし、僕自身にとっては、心が戻る宿り木であったり、
身をただす、バイブルのようなものでもある。
データ量に置き換えれば、そこには絶対的に49.8MBしか存在しえない。
そのメディアをパソコンにセットして、
目で耳で、49.8MB分の映像と音声を体の中に流し込む。
すると不思議なことに、頭に過るのは、49.8MBに書き込まれていない、
音声や情景、やりとりが浮かび上がってくる。



そして、この49.8MBの背景に見る情景や音声が、
圧倒的に49.8MBより大容量で無秩序なシークエンスで、
頭の中に押し寄せてくる。そして、心をかき立てる。
これが、先ほどに宿り木、バイブルと言ったゆえんでもある。



そうした体験価値を、私たちの心にすっと入れてくれたCMがある。




マクセルDVD ずっとずっと。新留小学校 篇




日常を見返すことで、郷愁、ノスタルジアに浸る事は可能である。
一見、日常をスナップしつづければ、誰しも体験できることのようにも思える。
しかし、それは嘘である。空っぽの動画や映像を見ても、
そこにはその記憶容量分の情報しかないからである。
私たちは、少なくとも私は、聞き取った、見た情報の向こう側にある情景に、
心を揺さぶられる。



だからこそ、私達がすべき大切なことは、
日々の体験に身を焦がす程の想いをのせることしかない。
私の場合だったら、49.8MBにある、押し寄せてくる情景をつくるための
日々を体験していくことに他ならない。



こんな詩もある。
最後だとわかっていたなら

今日という日を後悔しないためには、
「ありがとう」「愛してる」を今伝えるしかない。
凄くもっともなことで、反省ばかりだ。




こうしてblogで、日々の思考回路を残す、
出来事をスナップする。メディアに残す。
そうしたことはノスタルジアの入り口をつくることにはなれど、
本質的な種を植える作業にはならない。
身を焦がす想いをして、仕事に打ち込む。であるとか、
大切な人に感謝する。であるとか、
本質的な種をまく日常を送る事を、忘れてはならない。



そして、そのメディアに今一度触れたとき、
懐古主義になって、昔は良かったなと、止まってしまう事ではなく、
自分自身を前にドライブさせる、きっかけにしなければならない。
このとき、前にドライブさせるのは、自分の過去の行いに違いない。
自分に嘘をついてはいけないと、思える行いを残さなければならない。



最後に、こうしたメディアを残してくれた、仲間に、感謝。ありがとう。